高校入試と体験談
合格実績
埼玉県の高校入試のしくみと高校選び
平成4年3月開校以来の合格実績
埼玉県の高校入試のしくみと高校選び
志望校決めは生徒自身が主体に家族で決めよう
志望校の選択は、本人とご家庭の希望を重視して行えるようになっています。
特に県立入試では、前年の倍率によっ て人気が上昇下降を繰り返す「隔年現象」の傾向もあります。
うわさや過去の傾向にとらわれず、しっかりと状況をとらえ、私立高校の併願を含めた受験作戦が必要です。
学校の選抜について
公立入試募集では5教科の学力検査とあわせて、調査書の各教科の評定の得点、特記事項・特別活動の記録の加点内容、 その他の記録の加点内容が各高校ごとに明らかにされ、学力検査と調査書得点の合計で上位より募集人数の合格者発表が基準です。
県内私立を中心とした私立高校募集では、「北辰テストの偏差値・一学期の通知票・二学期の通知票・3年の内申点」が重要になります。
都内私立の場合は、内申点数を 評価する高校が沢山あります。
来年度の入試基準が発表される前に、今年度の各高校の入試の募集基準を掴むことが志望の目安になってきます。
受験生やご家庭では、目につきやすい「英検や漢検などの加点項目」が注意を引くと思います。
調査書の評定を中心に、特記事項や特別活動の記録、その他の記録が選抜に使用されています。
現在の目安をちょっとみてみよう
中学2年3月の北辰テストで、現状の成績でどの辺の高校が合格圏内なのか試してみるのも良いと思います。このテストは、1・2年の学力の定着を確かめようとしているテストです。
4月の最終週から始まる中3の北辰テストに向けて、いかに3月・4月に1・2年の復習を頑張るかにかかっていることを身にしみて知ることができると思います。
偏差値が70、500点満点でおよそ400点クラスになると、川越高校・川越女子校が狙える範囲に入ります。
志望校選びのスタートは、3月・4月の学習の取り組みで、毎年、とても大きく方向付けが出来ています。 3月から「よしっ、入試に向かうぞ」と意識を変えることが成功の秘訣です。
苦あれば楽ありですね。
1月22日~26日~ 県内都内 単願・併願入試
✳️埼玉方式 ? 県内のほとんどの私立高校は二学期の個別面談で合格の目安が獲得できています。
高校によっては、一学期の通知票の点数で合格の目安が獲得できています。
✳️個別面談の資料 7月~12月の北辰テストの上位2回平均の偏差値(4.6.7月の偏差値も評価する高校もあります)
9月・11月の4市テストを評価対象に加えるた高校もあります。
1学期または2学期または3年内申点
英検・漢検等の資格、県大会以上レギュラーとして出場の記録なども評価されます。
各々高校で偏差目安基準・通知表点目安基準などをクリアしていれば、合格の目安が確保できます。
しかし、正式な合格ではありませんので、入試を受験して合格結果が出るまではしっかりと入試勉強をしてください。
これらの資料を持参の上、高校の入試相談で入試の合格目安の評価について話すことができる高校がほとんどです。
体 験 談
田端 大己君 掘兼中学 浦和高校 福島医大医学部 2024.3.15.医師国家試験合格
浦和高校に合格した時は、とても嬉しかった。その嬉しさは、合格というよりも浦和高校とのギャップを最後にうめられたことのほうが大きかった。自分でもよくここまで頑張れたなと思う。
この塾に入ったのは1年生の2学期、まさか浦和高校に合格するとは思っていなかっただろう。僕は堀兼中学校だから塾までかなりの距離はあったが、休んだ日は全然無かった。定期テストの前は頑張ったと思う。
大先生は3年生になった僕に浦和高校を薦めた。はじめはなぜたせかわからなく軽い気持ちでいたが、だんだんと目指す気持は強くなっていった。いくら勉強しても北辰テストの偏差値が伸びなく何回も諦めようとした時には、大先生の言っていた「思いを力に」という言葉が励みとなった。
「思いを力に」という言葉に隠された意味がわかったのは合格発表の日だった。合格という目標設定があったからこそ勉強する気になれたし、「勉強なんかしたくないな」という気持ちになることが結構あったけれど、その時は「浦和高校に合格するんだ」と思うことでやる気になれた。最後の一週間は一日一冊のペースで社会と理科のテキストを終わらせた。正直、やっても無意味だと思っていた。でも、今はやって良かったと思う。おかげでテストは全部判ったし、何と言っても自身につながった。社会は100点をとれたと思う。
浦和高校というとんでもない高校に合格出来たのは大先生のおかげだ。運命を変えてくれた。大先生が薦めなかったら僕は浦和高校を受験していなかっただろうし、高いレベルの高校へ行けなかったと思う。本当に出会えて良かった。浦和高校に合格したのは大先生に対する恩返しになっただろう。
「思いを力に」と「ベストを尽くせ」という言葉はとても印象に残っている。これらは深い意味があり、僕を気持の面から強くした。多分、高校へ行っても忘れないと思う。
これからは「浦高の誇り」を持ち、新たな目標を抱えて高校生活をおくりたい。
阿部 幹也君 柏原中学 浦和高校 東京大学二類 東京大学一類 千葉大学医学部 小児科医
小学五年生に入会し四年生の復習からスタートしました。柏原小学校のときは、消極的な面がありましたが、復習を終え予習に入っていくと、いろいろなことに積極的に取り組むようになりました。
自分の得意な部分になった数学に取り組む時は、入会した時とはまるで別人のようになっていたと思います。「新しいことを習ったら、そ日のうちに復習する」、祐子先生に教わったこのことを浦和高校の時代もずっとを続けた勝利です。
小学6年の終わりには、中1のテキストを3段階の難易度に分けた3冊を終了したことが、中学時代を全てに余裕を持ちながら深く学習出来る結果になっり、大変大きな成果になったと思います。
「入れる高校」より「行きたい高校」で学ぶことを目標に1ランクアップをめざし、夢を実現するようにしました。「チャレンジ ワン モア」の気持ちだと思います。
小久保 美羽さん 柏原中学 浦和一女
合格者発表の日、私はバスの時間を一時間間違えて南浦和の駅に着いたのは9 時20 分を過ぎた頃だった。 半分迷子になりながら一女に向かっていたとき、いきなり母の携帯が鳴った。祐子先生からだった。一女まで 走った。先生を探しながら掲示板のそばに行った。
529 番、あった。全日制の左端の一番下。あのシーン、忘れないだろう。何度も確認して、後から追いか けてきた母に電話した。母は門のところにいたらしい先生と一緒に来た。先生が掲示板のところで、門の前で 何枚も写真を撮ってくれた。書類をもらった後大先生も来て「よくやったね。よかったね」と何度も言って手を 強く握ってくれた。夢のようだった。
思えば初めてCAIに来たのは小4の頃、あまりまじめな生徒ではなく、中学生になっても、部活に行ったり、 空手・体操を続けていたりと、あまり勉強熱心ではなかった。1学期はいつの間にか終わった。ぼやぼやして いたらあっという間に終わっていた。もう少し勉強していれば後々楽だったかもしれない。過酷な夏休みが始ま った。節電タイムもあって朝8 時に往きお昼まで、4 時から9 時半まで、それに加えて家での復習、今までに ないくらい勉強した。一女に決めたのは夏の休みに入る前日だった。覚悟を決めるため、大先生に宣言した。
一週間ない休みに年表を仕上げた。2学期、行事に心を取られすぎて勉強をおろそかにしないようにすることが特に大変だった。内申を取るために定期テストに力を入れすぎて北辰の点が下がったり、英語ができなくな ることを食い止めることも大変だった。 同時に様々な高校へ面談に動いたりした。先生からいろいろなアドバイ スをいただけたおかげで落ち着いて高校に出向くことができた。母も私も初めてで、何もわからなかったからと ても助かった。押さえに受けた栄東も先生の紹介がなければきっと行くこともなかっただろう。冬休みは、誘惑 に負けずに机に向かうのが苦しかった。与えられたテキストを必死に終わらせた。私立受 験も秒読みになり焦りと不安が募った。過去問を続けるうちに少しずつ点が上がっていくのがうれしかった。当 日は落ち着いて受けることができた。
公立受検のちょうど一週間前、私は一度川女に志願していた。 一女を受けるにあたって、上位校であることなどから迷っていた。そんなことを大先生はお見通しで、様々な言葉で私の本当の心を気付かせた。三時間近く悩んだ。本当はどうしたいのか、どこを受けたいのか・・。担任に書類を作ってもらうように電話をかけ、塾に戻ると大先生は一言だけ「腹は決まったか」とだけ言い、それ以上聞かなかった。次の日、志願先変更をした。
塾に行くと大先生は一女に変えたかどうかを聞かずに、受検番号を聞いた。やはりお見通しだった。今思えばあの時の大先生の言葉があって、今回の合格をつかみ取ることができた。
直前の2~3 週間はひたすらテキストを終わらせていった。今までにないくらいにやった。3~4 日で200ペ ージものを一冊終わらせるペースだった。一人でやっていたらこのやり方はしていなかった。きっと点が取れない数学に手を付けようとしていただろう。
大先生のやり方は (点が取れる科目を伸ばす)だった。その通りに理科と社会を徹底的にやったら過去問の点は少しずだったが上がっていった。前日の夜は大先生お勧めのいちごミルクを作って飲んだ。自分なりに 「いち女にごう格いちごミルク」なんてげんをかついで飲んだ。早くに布団に入ったがなかなか寝付けず、朝は 5 時55 分に起きた。時間をかけてよくかみしめながらご飯を食べた。準備しながら出かけるまで、新年に録っておいたウィーン・フィル・ニューイヤー コンサートの「ラデツキー行進曲作品228 」を何度も聞いた。